一人(ちゅい)助け(たしき)助け(たしき)【一人一人、助け助け合う】

立憲君主制を尊重する立場から、自他の個人の尊厳を守る有権者同士の緩やかなつながりで共同体を尊重する道を探ります

LGBT問題についての一所見

 所謂、LGBT法案について世が騒がれていますので、ここで所見を表明します。

 筆者は同性婚に賛成の立場ですが、憲法24条の改正は必要だと考えています。(詳細は別の機会に)
 また自身が異性愛(たまにバイ気味?)で性自認が両性である事から、この問題の当事者であると自認しているが、既存のLGBTQ支援団体は支援の対象として同性愛者を中心としており、自身の様な「異性愛に違和感のない性的少数派」が不利益を被る実態が可視化されていないと感じていた。
 この様な経緯から当事者と非当事者の対立よりも、筆者は当事者同士の対立の方が問題と考えいた。

 ところが最近、ある信頼していた非当事者の方に、自身のジェンダーアイデンティティーについてカミングアウトした所、「どの性別の服飾を選ぶのか?」という点について、これをフェチシズムの問題に置き換えられて、「あなたの周囲が受け入れがたい『趣味』について『理解』という名の『我慢』を強いるのはスジ違いだ」という主旨の事を言われた。
 この後、相手方には一方的に対話を打ち切られてしまったが、この件を改めて吟味したいと思う。
 まず『アイデンティティー』の問題を『趣味』と置き換えているが、この点からして『無理解』である。また、ここで「我慢」という言葉を出したことは、こちらの「理解を求める姿勢」を「我がまま」と捉えていた事になる。
 既に何人かの議員が「LGBTは趣味」(自民党・谷川とむ衆議院議員)「LGBTへの支援はやりすぎである」(杉田水脈議員)と言ったたぐいの発言を行い問題視されている。
 それにも関わらず、この様な発言をされたという事はこの問題に関して大して関心がないのではないかと推測されます。まず間違いなく言える事は、カミングアウトした事柄に「自分でも調べてみる」という態度を全く見せなかったことだ。
 試しに検索して頂ければわかるが、ジェンダーマイノリティーの属性も細分化されていて、性的少数派の同性愛者という訳でもなければ、一見「性的嗜好」に見えることでも本人にとっては「性的指向」だったという例は多くある。(そもそも先方は「性的嗜好」と「性的指向」の違いがわかっていないのではないかと疑っている)
 つまり当事者からすると理解云々の前に、圧倒的にこの問題の前提となる知識が不足しているのだ。

 また、100歩譲って、これが「趣味」の問題であったとしても、「我慢を強いるな」と言って「理解しようとしない姿勢」を正当化できるものではない。今では信じがたいが、ほんの20年前までは「アニメ」は相手を選びながら開示する趣味で、本人に許可を取らず他人に公表したら舌打ちされる類のものだったのだ。

 ともあれ、今回の件で、もっとも自身を脅かすのは当事者同士の対立ではなく、非当事者(それは引いては社会の多数とも言える)からの無理解だと認識した。
 大袈裟かもしれないが人格を否定された事で生命の危険すら感じたし、情けない話相手から送られた最後のメール文面も証拠として残しているが、未だに直視すると動悸がする。

 但し、筆者本人も猛省しているのは、自身も受け入れてもらう事を前提にしたカミングアウトではなかった?という点だ。情動的な事を言えば「この人なら裏切られても仕方がないという」覚悟がなかった事は確かだ。
 巷でカミングアウトに関する美談を良く聞くが、逆に言えばそれだけ一般的には無理解に基づく悪い結果の方が多いという事だろう。(これについては、無責任に美談にしてしまった報道機関も悪い)

 総括して言えるのは法案中の「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解が必ずしも十分でない現状に鑑み」という一文は正しく、その対象は反対論者だけでなく支援者も含まれるという事だ。

 下記、余談。
 作家の古谷経衡氏によると、ここ最近の保守論壇のある種異様なまでのアンチLGBTブリについて、その原因を他の問題との「優先度」と分析していたのは、なるほど分からなくもない。
 同記事中の保守派にとってのホットイッシューの変遷図は一読の価値ありなので、興味があれば是非ご覧いただきたい。
 https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20230616-00354087