一人(ちゅい)助け(たしき)助け(たしき)【一人一人、助け助け合う】

立憲君主制を尊重する立場から、自他の個人の尊厳を守る有権者同士の緩やかなつながりで共同体を尊重する道を探ります

Ryuchell氏の自殺に思う

 遅ればせながら、Ryuchell氏が自ら命を絶たれたとの事でまずはご冥福をお祈りいたします。
 当事者として、この件を見た時、また多数派の中で「触らぬ神に祟りなし」という空気が醸成されないかという懸念があり、明け透けに言えば「困ったな…」という思いはあります。
 また氏の離婚前後からお内儀様とご子息が振り回された事は事実ですから、その点で100%肯定する事は難しいでしょう。

 

 しかし、だからと言って「奥さんと子どもが可哀そう」という言葉を錦の御旗にして「自分勝手」「何がしたかったのか分からない」という死者に鞭打つ態度が許されるのでしょうか?

 まず「奥さんと子どもが可哀そう」という態度は、その言い分が「夫・父の役割への放棄」を非難するものであるから、根底に古典的な「男らしさ」を強制する姿勢が見える。

 

 だが、男性の立場でそれを言うなら、「匿名のネット空間」という安全地帯から誹謗中傷する輩に「男らしさ」を説く資格があるのか?という疑問が残る。
 一方で、女性の立場でそれを言うなら、自身のパートナーにその「男らしさ」を求めてきた、あるいは求めるに足るほど、パートナーを『異性』として尊重してもいないのであれば、赤の他人の「複雑な事情」に一々口出しするのは筋違いだ。

 

 仄聞するところによるとRyuchell氏は、「父親の立場に誇りを持っている」一方で「夫という立場に苦痛を感じていた」との事で性的な立ち位置についてかなり迷いがあったようだ。とすれば自己実現の方向性でかなり葛藤を抱えていたことが伺える。
 つまり「何がしたかったのか分からない」の正体は(情動的な物言いではあるが)「自分はこの人生で何を求めているのか、何を実現したいのか」という悩みだったのではないか。そして、それ自体は別に珍しい事例だとは思えない。氏の場合は、たまたまその重点的な分野が「心の性別」だっただけではないのか。

 

 とすれば、この炎上の背景にはやはり「心の性別の複雑さ」に対する日本社会の無理解があるのではないか。
 無論、欧米型のLGBTQ論を無理やり日本に当て込む必要もないし、歴史的に性の多様さに対して(各々の時期の欧米に比べれば)寛容であったことは理解している。
 だが、その事と現に今差別や無理解がない事は話は別だと念押ししておく。